たった80年、ずっと挑戦
広島朝日広告社の軌跡

1899~1958
戦前~戦後の広島で、挑戦の歴史が始まる

アメリカ帰りの創業者
広島朝日広告社の礎を築く

 1899(明治32)年、創業者の佐伯卓造は17歳で単身渡米し、10年もの間、語学を学びました。
 その後、米人弁護士の通訳を請け負う傍ら、銀行から麦酒会社、生命保険会社や通運会社など多岐に渡り、日本人のための代理店として活躍しました。
 1913(大正2)年、そんな卓造が日本に帰国し、地元広島にて始めたのが、当社の前身にあたる佐伯便利社です。彼は持ち前の行動力とユニークさで〝広島の初めて〟を数々行いました。
 飛行機宙返りを行う曲芸飛行士の招致や、企業対抗野球大会の主催、当時としては珍しかった中学校進学者のための模擬試験も開催。広島初の労働組合を結成したのも卓造でした。



大正4年、アートスミス氏による飛行機宙返り

 


廃墟の町、
先を見据えた広告代理業

 当社の創立は、1937(昭和12)年。朝日新聞社から広島版の扱い依頼を受けて始まります。
仕事が軌道に乗っていた1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が投下され、当時100名近くいた社員が行方不明となり、生き残ったのは3名でした。
 一面瓦礫の山、黒こげの死体が転がり、人々が打ちひしがれている光景の中、生き残った卓造は自宅から用意した会社の表札を瓦礫の山に打ち立て、今できることをやろうと行動しました。
 電力会社の停電のお知らせ広告から業務を再開。求人広告や生存のお知らせ、古物商たちの売買告知の広告などを行いました。時にはお金が払えない方の依頼も引き受け、尋ね人広告を毎週行い、少しでも広島の人々の助けになれるよう奮闘しました。
 小さな仕事を積み上げて迎えた1958(昭和33)年、卓造は第一線を退き、息子の英三に社長職を引き継ぎました。
 戦争によって大きく落ち込んだ日本は、この頃から高度経済成長期に入ります。著しく成長する日本に寄り添うように、当社は広島の地に活気をもたらす働きを見せていきます。



焼け野原となった広島市

 

1959~2017
時代の変化に対応しながら、未来へと挑戦は続く

最新技術で夢と感動を
「あすの国鉄展」開催


「あすの国鉄展」入口看板

 


新幹線「夢の超特急」模型

 

 経済成長が進んでいた当時、国鉄(現JR)は人々の足、産業の動脈として全国に2万キロに及ぶ鉄道網を誇っていました。さらに近代的交通機関として電化、ディーゼル化を拡充し、輸送力を飛躍的に増強するなど、革新期を迎えていたのがこの時期です。1962(昭和37)年6月、その一環として、三原―広島間の電化工事が完成。これにより広島と東京が結ばれ、中国地方の経済、文化の発展に大きく影響を与える出来事となりました。
 この電化完成を記念し、国鉄中国支社と朝日新聞社は「あすの国鉄展」を福屋百貨店で開催。当社は新聞広告での告知や入場切符などの印刷物、会場設営などを担いました。会場では、国鉄新幹線や電気機関車の模型、図解の陳列などで人々を魅了。6日間の会期中に訪れた来場者は約14万人でした。これは「開店以来初めての人出だ」と福屋百貨店が驚くほどでした。明るい未来を願う広島県民に、たくさんの夢と感動を与えたことでしょう。



夢の超特急大パノラマ


快速電車80型可動模型

 

「朝日女性サロン」で
女性の活躍をサポート

 昭和30年代後半において、女性の社会進出や主婦の自立を巡って論争が展開されていました。多くの女性は結婚後に仕事を辞め、家庭を支えることが主流でしたが、女性の自由が叫ばれる時代でもありました。
 この時期に開催したのが「朝日女性サロン」です。これは女性の生きやすい社会作りを目的としたイベントで、1964(昭和39)年から、計62回開催しました。講師を呼び、教養や娯楽など、女性のためになる情報を発信。当時は女性にスポットを当てたイベントは珍しく、好評のサロンとなりました。この後に続く、イベント運営業務の基礎となった実績の一つです。



熱気溢れる会場の様子

 

新しい事業への挑戦
朝日住宅展示場が誕生

 昭和40年代、家族を取り巻く住環境も大きく変化しました。核家族化が進み、当社も広島の広告会社として、新たな挑戦を続けます。
1972(昭和47)年、労働者が家を取得することを国が奨励する制度が施行。多くの人がマイホームを持つことを夢見るようになります。広島の町も宅地改革が進み、時代のニーズに応えるため、当社は住宅展示場を作ることを決意しました。これまで経験したことがない事業への挑戦でしたが、1975(昭和50)年、広島駅北口の光町に「朝日住宅展示場広島会場」をオープン。マイホームの夢を実現できる場所として、住宅セミナーやキャラクターショーなど、家族が楽しめるイベントを開催。毎月2万人を超える来場者がありました。
 その後、「朝日住宅展示場東会場」、「井口ハウジングパーク」、「廿日市朝日住宅展示場さくらす」を運営しました。

 


朝日住宅展示場会場風景

 

広告変遷期に突入
新メディアで広島を活性化

 1996(平成8)年、佐伯正道が3代目社長に就任しました。バブル景気が崩壊し、広告会社のあり方を見つめ直す時期でもありました。
 朝日住宅展示場で培ってきた知識と経験を活かし、さらに発展させ、さまざまなイベントを開催。1999(平成11)年に尾道市と愛媛県今治市の59.4キロを結ぶ、自動車専用道路のオープニングイベント「瀬戸内しまなみ海道3デイウォーク」などを行いました。
 2001(平成13)年には、イベント業務を強化するべく、広告開発部を創設し、広島県や民間のコンペに参加するようになりました。小規模なものから徐々にノウハウを身につけ、内閣府と広島県の主催行事「第8回食育推進全国大会」や、瀬戸内海国立公園指定80周年と瀬戸内しまなみ海道開通15周年を記念して開催された「瀬戸内しまのわ2014」の運営業務に携わりました。
 そのほかにも、朝日新聞社と共同で発行している地元情報紙「ビジネス朝日」創刊や、ウェブ広告への要望に応えるデジタルソリューション室の創設、広島本通商店街・広島金座街商店街のアーケード幕制作管理など、時代と共に変遷するニーズに対応するために、新しいメディアへの取り組みを常に意識しています。
 多岐にわたる事業の成功はもちろんのこと、広島で一番歴史のある広告会社として「たった80年、ずっと挑戦」の気持ちを胸に、地域の活性化や社会貢献など、これからも取り組んでいきます。

 


広島金座街商店街に設置したカープ優勝のアーケード幕